2024/11 聖徳太子は暗殺された

仏教と神道の融合を図る聖徳太子とネストリウス派キリスト教を伝えたい蘇我馬子の軋轢が、聖徳太子暗殺に至った。というのが田中英道教授の仮説。傍証として聖徳太子死亡(622年2月22日)の前日に妻が死亡し、太子にふさわしい長期間にわたる葬儀<殯(もがり)の儀礼>が行われなかったのは不自然。という点を指摘している。蘇我馬子は、崇峻(すしゅん)天皇を暗殺、蘇我入鹿は、聖徳太子の息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)一族(25人)を暗殺(643年)という史実。蘇我氏の祖先は、ローマから追放されたユダヤ人であり、暗殺をいとわない大陸的な残虐性を有していた。

蘇我は「われ蘇(よみがえり)り」で、キリストの再生を意味し、聖徳太子の名前「厩戸皇子」は、馬小屋で生まれたキリストを暗示する。ネストリウス派キリスト教の信仰の証拠。古代にユダヤ人が日本に流入したというのは、武人埴輪の帽子・美豆良(みずら)や馬、「唐本御影(とうほんみえい)<聖徳太子2王子象>」の聖徳太子の皇子の美豆良が物証。

「厩戸」という二字だけの本名については、古事記(712年成立)では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやうまやとのとよとみみのみこと)」とされている。日本書紀(720年成立)では太子の一族が居住していた斑鳩宮を「上宮」と呼称している。
高句麗から来日した慧慈が「上宮厩戸豊聡耳太子(うえつみやうまやととよとみみのひつぎみこ)」の名を使った記述がある。

「聖徳太子」という名称は、「懐風藻(751年)」に初出。そして平安時代に編纂された「日本三大実録」「大鏡」「東大寺要録」などで「聖徳太子」と記載されている。

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「聖徳太子は暗殺された」(田中英道著)より引用